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2011年4月20日 (水)

ともちぶろ。~「明るい豊かな社会」が見える~

東日本大震災の発災後、なんと初めてのブログです。
バタバタしてたとは言え、ちょっとサボり過ぎですな…。反省いたします…(´Д`)


いまさらですが、初めてということで整理させて下さい。


東日本大震災(地震名称:東北地方太平洋沖地震)が発生。
それは平成23年3月11日午後2時46分ごろ。
三陸沖を震源とする、国内観測史上最大のM 9.0の地震。
これにより引き起こされた津波や火災により、多数の死傷者が出ている。

当震災の死者は12都道県で14,013人、未だ行方不明者は6県で13,804人。
死者・行方不明者の合計は27,817人にのぼり、
うち、宮城県内では死者8,505人、行方不明者7,934人となっている。
(4/20・警察庁)

そもそもわが宮城県では37年に一度と言われる「宮城県沖地震」が、
向こう30年以内に99%の確率で発生し、直後に大津波が発生する。
そのために県民は危機感をしっかり有して防災・減災準備を…
って言われてたんですよ。事実各地のJCも「防災事業」を頻繁に行った。
自治体も「出前講座」や、各地のセミナーで、声高に訴えてました。

ではなぜこんなにも大きな被害になったのだろうか。
頻繁に防災は訴えられていても、実際県民の意識は低かったのか…?
いや、それは違います。県民はそれぞれ地震の対策をしていたし、
沿岸部の方々は「大津波対策」をしていたのです。

結局のところ、私たちが想定していた「宮城県沖地震」とは、
M 8.0、震度6~7、そして3mの大津波が発生する…というもの。
あまりにも規模が違い過ぎ、というのが分かりやすいところでしょう。
まさか避難をしたつもりの家屋2Fや3F、ビルの屋上にまで津波が襲い、
まちをまるごと飲みこみ、破壊し尽くしていくなんて、想像すらできなかったのです。

ちなみに、私自身の会社も同様です。まさか津波が来るなど夢にも思っていない、
フェリーがつく港(仙台港)から直線距離で軽く1km以上も離れている支店がいくつか、
1Fの天井近くまで水が到達するほどの冠水被害を受けました。
正直、発災当初に受けた報告では、その事実をスムースに自分の頭で、
受け入れることもできませんでした。



さて発災直後、私たちは宮城ブロックにて「非常事態宣言」を発令しました。
3/11深夜まで、自らの家族や会社、そしてJCメンバーの安否確認を行ない、
全て断絶されたライフラインの復旧を待ちながら、可能な限りの情報を集め、
宮城ブロック協議会としての「災害対策本部」を仙台JCと共に設立し、
避難所や自宅で水や食料の不足、寒さと闘う県民へ、
まずは「生き抜く為の支援」としての「物資輸送供給」を行ないました。

私たちJCは企業人のつどい。
この強みにより、はじめは行政が貯蔵していた食料や水を、
時間が経つにつれ全国の同志から集まる物資を、
私たちメンバーが有する輸送能力をもって、細やかな配送をしました。
少なくともこのスピードと細やかさはNo.1だったと自負します。

さらに物資支援は「生き抜く為のもの」から「生活の為のもの」に変化。
生理用品やオムツ(子ども用・大人用)といった日用必需品や、
マスク・石鹸などの衛生用品、衣料品や下着・靴などを配布しました。

2週間が過ぎるとまちは急速に「復旧」してきます。
津波により浸水した家屋の、いわゆる「泥出し」作業や、片付け、
そんな作業を手伝う人的ボランティア支援が、地域のボランティアセンター
が中心に実施され、私たちも県や市町村の社会福祉協議会と共に、
ボラセン自体の運営や、さまざまな「協働・連携」を行なってきました。


…これらがJCとしての初動です。
私たちにはできる限り、思いつく限りのことを、考えるよりまずは行動し、
とにかく今の「命」を最優先に、これ以上死者を増やさない支援をしました。
果たしてこれらが正しかったのか、本当に効率よく遂行できたのか、
今の私にはわかりませんが、少なくとも「やってよかった」とは思っています。


1週間を過ぎた頃でしょうか。
ブロック内のあるメンバーが、無事でいることを確認することができ、
さっそく彼の地まで会いに行きました。彼とは会うや否や、互いに涙を流し、
熱く抱きあいました。私には「生きてて良かった」という思いのみであります。

彼は、自分の家も会社も津波に奪われました。
今も妻の実家に世話になっている、とのことです。

しかし彼は私に言いました。
「会長と連絡取りたかったんだ~。
何の支援を手伝えばいいかわからないから、教えてもらおうと思ってさ~」と。

涙が溢れました。
自分自身が何より大変な立場にあるのに、
帰る家すらないのに、
思い出の場所や物が全て奪われてしまったのに…
彼は「人の為に働くこと」のみを望んでいたのです。

私は彼のことを心から尊敬します。
彼こそがJAYCEEの鑑であると思います。
そしてこれこそが「JC活動」の真髄であると確信します。



確かにこの震災は、私たちからあらゆるものを奪っていった。
しかし、この震災によって、ひとつだけ以前より明らかになったものがある。
それは…「明るい豊かな社会」とは何なのか。

私たちJAYCEEが常に唱和し実現を目指す「明るい豊かな社会」は、
この震災に私たちが打ち勝った時にみる、わが故郷の姿である。

私たちは負けない。
私たちは必ずや「明るい豊かな社会」を創り上げる。


もう少し、ちょっとだけ無理をしてみよう。

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